2020年04月30日

【木村泰子 緊急寄稿】虐待、貧困etc.……コロナ危機で苦しむ子どもたちに対し「今、できること」




【木村泰子 緊急寄稿】虐待、貧困etc.……コロナ危機で苦しむ子どもたちに対し「今、できること」


2020/4/28

本誌でもおなじみの大空小学校初代校長・木村泰子先生が、このコロナ禍の中でどれだけ子どもたちが苦しんでいるか、見過ごすことはできないと緊急寄稿してくださいました。子どもたちに関わる人間の一人一人が、この問題を真剣にとらえていかなくてはなりません。学校関係者、保護者の皆様、学校をとりまく地域の皆様、ぜひお読みください。

文/大阪市立大空小学校初代校長・木村泰子


木村泰子(きむら・やすこ)全教職員、保護者、地域の人々が手を取り合って「すべての子どもの学習権を保障する」学校づくりに情熱を注ぎ、支援を要すると言われる子どもたちも同じ場でともに学び、育ち合う教育を具現化した。『「みんなの学校」が教えてくれたこと』『「みんなの学校」をつくるために―特別支援教育を問い直す―』(ともに小学館)等、著書多数。

目次
困っている子どもの声が届いていますか?
「先生」である前に「一人の人」として
子どもが荒れるのは大人を信じていないから
危機を乗り越える力は人と人との「信頼」に尽きる

困っている子どもの声が届いていますか?

全国の先生たち、大変な状況が続いていますが元気にしていますか? 焦っていませんか?  笑っていますか? 今は何を一番大切にして仕事に向かっていますか。
ある日突然、休校の要請が出て目の前の子どもの姿が見えなくなるという現実を突きつけられました。それも、一年の最後のまとめの時期と、新たな集団での学びがスタートする学校での大事な時期です。外出を自粛してからは、社会の動向はメディアを通して見聞きするしかありません。そんな中で強く思うことがあります。それは、国が危機に遭遇すると、弱者の声は届かなくなるということです。言い換えれば想定外を乗り越える力は日常でしかつけられないということです。対応が後手に回ったり、人のせいにしたりする中で人の命が失われていくのが、今の日本社会の現実です。
他人事ではなく自分事として遭遇している危機を学校現場に置き換えると、先生たちが焦りを感じて困ってしまうと子どもたちの声が聞こえなくなることと同じだと思います。教育格差が……遠隔授業が……家庭教育で……評価は家庭教育の結果で……夏休み返上で授業日数の確保を……など、すべては「いかに教師が教えることを取り戻すか」に終始した報道しか入ってきません。家庭教育をこの間の学力の評価にするとの考えなどは、もってのほかです。従前の学校教育の中で「家庭教育」で全国学力調査の結果が上がるなどとの手段を鵜呑みにしてしまっている学校現場の姿勢も問い直す必要がありますが、この非常事態においても「子どもを主語に」学校教育を問いなおそうとしない声には怒りすら感じます。
オリンピックより人の命が大事であることを再認識した日本社会です。文部科学省の穴埋め対策に学校が寄り添っていませんか。文科省は学校現場の事実は知りません。一人一人の子どもがこの間、大人の指示で学校から遠ざかってどんなふうに毎日を生きているかなど、知る由もありません。
おそらく文部科学省も、今の状況では多くの規制を緩和せざるを得ない状況にあるはずです。文部科学省や教育委員会の指示に依存しないそれぞれの地域の学校の子どもの学びを問い直すことが、今の先生たちの優先すべき仕事ではないでしょうか。
この危機を乗り越えた先には、従前の悪しき学校教育を断捨離して、新たな学びの場としての「学校」をつくることが求められています。「子どもが学校に来る意義は何なのか」先生たち一人一人が「子どもを主語」に自分の考えを持ってください。

「先生」である前に「一人の人」として

先生たちへの願いが先行してしまいましたが、今まさに気になることを共有したいと思います。主語を子どもに変えて今の休校措置について考えてみましょう。
長期休校の間、子どもはどのように家庭で過ごしているのかを想像すると、「気になるあの子は元気だろうか」「三度の食事はとれているのか」「大人の中で小さくなって過ごしていないか」などと、虐待やネグレクトをほとんどの子どもが受けているだろうと考える必要があるのが、日本社会の現状です。週に一度の電話による安否確認は、こちらが「元気?」と聞くと、「はい」としか子どもは言えません。周りに大人もいる中で本音を語れるでしょうか。そうかといって、濃厚接触は禁じられています。なすすべがないのが現実です。だからこそ考えなくてはならないのです。
すべての子どもは大人の前での最たる弱者です。このことは平素から「学びは楽しい」(雑誌「教育技術」/小学館に連載)の中で伝え続けてきていることですが、実感として今、まさに事実として露出しています。
長期にわたって、家の中でしか過ごすことを認められない事態に子どもは置かれています。家の中の人としかかかわることがない毎日です。それでなくても家に居場所のない子どもはどうしているでしょうか。普段は何事もなく家庭での生活が営まれていた子どもも、今は大人に気を遣いながら生きていると言っても過言ではないでしょう。
大人は、自分が困ったら目の前の子どもの困り感に目が向かないのです。虐待をしているわけでも無視をしているわけでもなく、気付こうとしないのです。だからこそ、子どもから「ねえ、助けて……どうしたらいい……」って伝えてもらえる大人になることが、子どもの「安心」を保障するために必要不可欠な大人の仕事なのです。
大空小では、困り感を持つ子どもから貴重な学びを得た9年間でした。貧困・虐待・体罰など、どれを一つだけとっても苦しいことばかりなのですが、これらのすべてを背負った子どもがいました。家に居場所はありませんでしたが、地域に彼の居場所はありました。それは彼が周りの大人を「信頼」し、地域の人とのつながりを持っていたからです。
夏休みには家に食べるものが何一つなくなり、家にはお金も置かれていない、親は何日も帰ってこない……そんなある日、彼がコンビニでおにぎりを一つ盗って店の横の路地でお腹に入れたことがありました。彼はその後、「オレ、水で3日はがまんできるけど今日は4日目やねん。がまんできなくなって死ぬと思ったから今、コンビニでおにぎり盗って食べてしまった。どうしたらいいやろう……」と、職員室に飛び込んできました。人のものを盗ってはいけないことを誰よりもわかっている彼だからこそ、職員室に助けを求めに来たのです。みなさんだったらこの時、どう応えますか?
私たちは誰一人何も言えませんでした。教師として子どもが物を盗る行為に対しての指導の言葉は誰しも持っています。
じつは、彼が飛び込んでくる前に、いつも学校で彼の困り感に寄り添ってくれている地域の人が職員室に駆け込んできて、彼の行動を見守っていた、と伝えてくれていました。従前の学校では、地域からの声として、「こんな場合は学校で指導してほしい」との声はよく聞いていたのですが、大空小の地域の人はその時、「困っている子どもがこんなことをしなくてもいいようにするために、地域の私たちは何をすればいいの? 先生たち、教えてほしい」と言われたのです。「先生」が主語になっていた私たちが想像もしていなかった地域の人の言葉でした。
この時、職員室の私たちは、「先生」である前に一人の「人」として子どもの困り感に向き合う言葉は何だろうと自問自答しました。「先生」という看板を下ろして一人の「人」として子どもの困り感に寄り添うために何が大事なのか。その日からはいつも、「教師である前に一人の人として子どもに向き合っているか」と互いに自浄作用を高め合いました。
このような困り感を持った子どもは全国にたくさんいますが、彼のように自分から困っていることを教えてくれる子どもであれば、ありがたいことです。このことがきっかけで地域のコンビニと学校がつながり、キャリア教育の場として協力体制が生まれました。
一方、気付かない、見えない子どもの困り感を大人は救うことができません。現在のように人と離れなければ生活できない状況下では、子どもの方から伝えてくれない限り、より困っている子どもの姿は見えなくなってしまっています。休校中の今だからこそ、学校の在り方を問い直すチャンスにしてください。困っている子どもが困らなくなる学校づくりは急務です。

子どもが荒れるのは大人を信じていないから

大空小の校長をしていた9年間には、全国から困り感を抱えた子どもが何人も転校してきました。その中の一人の子どもを今思い出しています。
前の学校からの引き継ぎ情報は、「問題児」「不登校児」「発達障害児」親は「モンスター」といったものでした。「学校に来ると反抗しまくり、気に入らないことがあれば暴れる」とのことでした。転校当初はまさに、その通りの行動を見せていました。自宅のマンションのベランダから物を投げることもあり、通行人からの苦情が絶えませんでした。
そんな中、同じマンションに住んでいる別の子の保護者が、その子の困っている状況を学校に伝えにきました。一言で言えば「その子は家に居場所がない」とのことでした。母親は一人夕方から働きに出かけて朝に帰る。その間、母親の知人の男性が子どもと二人で家にいるが、時々男の人の怒鳴り声が聞こえるとのことでした。
地域での子どもの状況を学校の私たちが知るすべは、地域の人に教えてもらうしかありません。そのために保護者も地域住民も、すべての主語を子どもにおいて学校づくりをしなければならないのです。
その子の母親は転校時に一度学校へ来ただけです。お化粧をしてきれいな格好をし、困りごとや悩み事については何一つ口にしないまま帰って行きました。その後は一切学校に姿を見せません。学校を信頼していないのです。一年生の時からいつも学校に呼び出され、「お宅の子どもは周りに迷惑をかける、家でしっかりしつけてほしい」と言われ続け、母一人での子育てに限界を感じていたのでしょう。働いて食べることだけでも必死な中で苦しんでいたのでしょう。学校から言われれば子どもを叱り虐待する。子どもはその時は泣いて言うことを聞きますが、すぐにまた呼び出され、その繰り返しばかり。「この子が死んでくれたら楽になる、と思い続けた」という母の言葉を後から聞きました。親が学校を信じていない。子どもは学校を憎んでいる、といった関係性を突きつけられました。
「子どもが荒れるのは大人を信じていないからだ」ということは、大空小の大人たちはこれまでにも子どもから教えてもらってきています。だから誰にも彼を排除しようなどといった動きはありません。
それどころか、地域の人々が、「今この子が一番困っている。どうしたら心の中を言葉にして伝えてくれるか」と学校に来て、そっと彼の横にいてくれるようになりました。困っている子どもにとって、先生でも親でもない地域の人というのは、直接的な利害関係がなく、一人の人としてかかわることができる存在です。
この子は学校にも家にも安心する居場所がない子どもでした。帰宅後に家から外に出る時には、いつもリュックを背負っていたそうです。ある時、いつもその子の傍にいてくれる地域の人が、「どうしてリュックを毎日背負っているの?」と聞くと、リュックの中をその地域の人に見せてくれました。すると、一番上に1枚のメッセージカードがあったそうです。
大空小では毎月、「バースデイ集会」が行われます。その月に生まれた子どもや大人たちがみんなの前で「自分から自分らしく自分の言葉で語る」時間なのですが、そのリュックの中のカードは、その集会が終わって退場する時、一人一人に木村がメッセージを書いて手渡すカードでした。「学校では誰一人信じられる奴はおらん」と言わんばかりの行動をとっている彼が、そのメッセージカードをいつもリュックの一番上に置いて毎日持ち歩いていたのです。地域の人が聞くと、「これオレの宝物やねん」と答えたそうです。
彼は、マンションの裏の地面の中に小銭の入った財布も埋めていたそうです。いつ、家に帰れなくなるかわからないから交通費を埋め、大事なものが入ったリュックをいつも持って家から出ていた子どもです。学校でだけかかわる大人たちの前では、そうした彼の「見えない部分」は見せてくれなかったことでしょう。
大人の私たちがこの子の困り感をわかろうとするようになるにつれ、この子は「学校は、本音を出しても聞いてくれるところだ」と感じ始め、困った時には暴れるのではなく、言葉で伝えればいいのだと学んだのです。
この年度の終わりに、母は学校に姿を見せました。校長室に入ってきた母は、最初は誰だかわかりませんでした。お化粧をしていないので別人に見えたのですが、彼女は、「これまでの自分をやり直します」と伝えにきてくれました。

危機を乗り越える力は人と人との「信頼」に尽きる

コロナウイルスの問題が起き、大人たちが自分の命の保障についてすら不安になっている現在です。そんな大人たちの気分をシャワーのように浴びている子どもは、声には出しませんが、大人以上に不安になっています。
今、大人は子どもたちの不安を安心に変えなければなりません。子どもが安心できるのは、人に対する「信頼」をもてた時です。親でなくても、先生でなくても、自分の周りに一人でも信頼できる大人がいれば子どもは安心できます。
これまでも東日本大震災や「やまゆり園」の事件、親の虐待による子どもの死、学校での人とのかかわりが要因での子どもの自死など、じつは何度も学校教育を問い直すチャンスはあったはずです。今、ピンチのこの時だからこそ、このチャンスを逃がさないように、「すべての子どもが安心して学び合える学校」をつくることを最上位の目的において、一人一人の大人の自分が問い直しをし、考える時です。
子どもから発信してくれない限り、今は学校が、先生が、子どもの困り感に寄り添うことが難しい状況です。だからこそ、考えてください。子どもの前の一人の大人として最優先する目的は何なのかについて、自分の考えを持ち続けてください。思考を停止しない大人として、気付いたことを行動に移してください。
危機を乗り越える力は、人と人の「信頼」につきます。
「大変」は大きく変わるチャンスでもあります。子どもに出会えない今、大空小の卒業生の一人、セイシロウの卒業メッセージを思い出しています。
「人にとって一番大切なのは平和です。平和ってとっても簡単なのですよ。だってね、今自分の隣に居る人を自分が大切にしたら、一瞬で世界中の人が大切にされます」
セイシロウが残したこの言葉は「大空の教育」の根幹になっています。

自分の命は自分が守る
となりの人の命を大切にする

コロナの危機に立ち向かう今、人のせいにしないで自分から行動していかなくては、と再確認させていただいた今回の企画でした。最後まで読んでいただき感謝です。ありがとうございました。


https://kyoiku.sho.jp/48248/








































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Posted by hyakuyobako at 01:39

2020年04月22日

【延期のご案内】映画『みんなの学校』上映会、及び木村泰子さんとのお話会

【延期に関する重要なお知らせ ◇ 8/9の開催を見合わせます】




映画『みんなの学校』上映会、及び木村泰子さんとのお話会ですが、3/22開催を中止し8/9に延期する旨をお知らせしました。
しかし新型コロナウイルス感染の収束までまだまだ時間を要すると予測せざるを得ず、やむなくさらに延期することにしました。

新しい開催日が決まりましたら、ご案内します。

変更が相次ぎまして申し訳ございません。
ご理解をよろしくお願い申し上げます。

まるで試されているかのような、毎日です。

先行きが見えない、不安な非日常が続いて、次第にみんなの心が軋み始めているのを、感じています。

救いは、今回の出来事が、子ども達と子ども達を取り巻く環境について、大人たちが普段とは異なった視座から見ることができ、子ども観を磨くことができる、そんな機会になりうることでしょうか。

子どもの尊厳と声や気持ち(意見表明や感情表明)を大切にする、子どもアドボカシー文化を巷に築くことが、私たちの活動目的です。
延期する催しがより良いものとなるよう、この春に発せられている子どもたちの声に耳を澄まして、参考にしたいと思っています。

子どもの通訳?子どものマイク?
木村泰子さんと語りあう!子どもアドボカシー文化ってなんだろう?
対談型おはなし会 木村泰子*アンドウジュン

木村泰子さんをお迎えして、子どもアドボカシー文化について語りあいます。

木村泰子さん------------------------------------
大阪市生まれ。 武庫川学院女子短期大学(現・武庫川女子大学短期大学部)教育学部保健体育学科卒業。1970年に教員となり、各校で教鞭(きょうべん)をとられました。
2006年に開校した大阪市立大空小学校の初代校長を務められ、すべての子どもの学習権を保障する学校をつくることに尽力されました。
2015年、45年の教員生活を終え、現在は講演活動で全国各地を飛び回っていらっしゃいます。

著書:『「みんなの学校」が教えてくれたこと』(小学館)
『「みんなの学校」流・自ら学ぶ子の育て方』(小学館)
『「ふつうの子」なんて、どこにもいない』(家の光協会)
『タテマエ抜きの教育論: 教育を、現場から本気で変えよう! 』(菊池 省三氏との共著・小学館)
『「みんなの学校」から社会を変える: 障害のある子を排除しない教育への道 』(高山 恵子氏との共著・小学館)
『不登校ゼロ、モンスターペアレンツゼロの小学校が育てる 21世紀を生きる力』(出口 汪氏との共著・水王舎)
『「みんなの学校」から「みんなの社会」へ 』(尾木直樹氏との共著・岩波書店)
など。

アンドウジュン----------------------------------
こどものマイクけんきゅうかい、ひゃくようばこ代表。
2019年より絵本よみニストとしての活動も始めました。絵本よみニスト楽団 猫と子は扉をしめないのメンバー。
キャンプなどができる野外体験施設で働きながら、プライベートで、子たちの尊厳を大人たちが大切にするための学びの場作りをしています。

◯スケジュールと場所、参加費、参加申し込み方法など:決まり次第ご案内します。

◯主催:こどものマイクけんきゅうかい・ひゃくようばこ

*午前中に同じ会場で無料にてドキュメンタリー映画『みんなの学校』を上映します。こちらは申し込み不要です。(ただし先着100名様まで)

http://hyakuyobako.boo-log.com/e500335.html

*こどものマイクけんきゅうかいについて
https://www.facebook.com/groups/447678479365288/?ref=share
〜かき消されがちな、こどもたちの声。届けられない気持ち。届けられない意見。
私たちおとながマイクのような存在となって、小さな人たちの小さな声を、大きく大きく響かせてあげたい。〜

わたしたちは、こどもアドボカシー、こどもアドボケイトについて学びあう 、こどものマイクけんきゅうかいを2019年 7月に立ち上げました。

こどもの社会的養護、こどもの意見表明権に関心ある方はぜひ講座やイベントにご参加ください。一緒に、こどもアドボカシー文化を育みましょう!

*アドボカシーとは:『人の懸念やニーズを支援するために代弁する行為である。人々が自分で語る声をもって いる場合には、アドボカシーとは、彼らの声が皆に聴いてもらえるよ保障することである。また、彼らが自分でしっかりと語ることが難しい場合には、アドボカシーとは、援助を提供することである。彼らが自分で語る言葉をもたない場合には、アドボカシーとは、彼らのために語ることである。(Herbert,1989)』

*ひゃくようばこについて
〜ひゃくようばこ 運営方針〜
わたしたちは、「こどもたちが安心して学びあう」ためには、まずは大人たちがこどもの権利について安心して和やかに楽しく学びあう時間を持つことが大切だと考え、大人を対象としたこどもの権利に関するお話会や読書会などを開催しています。

ゆえに、主催するわたしたち自身が、安心できて、和やかで、楽しい関係性を築きながら活動することが何よりも大切だと考えます。

わたしたちは、特に学びの場においてこどもたちの人権が守られないケースを危惧し、権利に基づくアプローチ、権利基盤型アプローチ、人権アプローチなどと訳される、ライツ・ベースド・アプローチ (Rights Based Approach) という手法を実践しています。
子どもの権利に詳しい文京学院大学の甲斐田万智子教授によれば、ライツ・ベースド・アプローチは『こどもをエンパワーするだけでなく、こどもの権利を守る責任のある人の力を高め』、さらに、『こども自身が権利を持っていることを理解して、権利を侵害された場合に主張できるように支援する』ものです。
このような繊細な活動を行うにあたっては、ひゃくようばこの活動に携わる人同士が対等な関係性を持つように常に意識し、互いの価値観を尊重し、個人の尊厳を守り、意見が異なる時であっても、緊張感せずに自由に、安心して話し合える雰囲気のもと、調整を図ることを心がけます。





















































































































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Posted by hyakuyobako at 11:16

2020年04月19日

体罰を容認するPTA理事の投稿を掲載したPTAの新聞



『〜「学校における体罰を積極的に認めてはどうか?」』

『〜責任や義務を果たせない者に、自由や権利などない。子どもも同じだ。〜』

などと書かれた愛知県小中学校P連理事の体罰を容認しようとする投稿を、そのまま載せてしまった、愛知のPTA新聞。






暴力を肯定する理事。
その理事の暴力肯定の投稿をそのまま載せてしまう新聞。。


発行者に、なぜこうした投稿を載せたのか、週明けに尋ねます。

追記

4/22に発行元と、コラムを投稿された方が関係する某自治体の教育関係部署に、体罰を容認したメッセージを発してほしくない旨、電話し、いずれも体罰を容認していないという回答を得ました。









































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Posted by hyakuyobako at 00:47

2020年04月13日

ある読書会で付箋に書かれたメモより




子どもから学ぶってどういうことかな?
大人は麻痺して分からなくなってしまったことに子どもは気づける。
大人はもしも「変だ」と感じても沈黙してしまうが、子どもは素直に声に出せる。
ときに大切なことを思い出させてくれる、気づかせてくれる素敵な存在。

愛以外はすべて、怖れ。
愛の目と怖れの目しかない。
権利を守ってもらったこどもは、他人を守るようになる。自分のことを大切にされたこどもは、他人を大切にするようになる。
こどもの願い(こっち向いて、私を見て、わかって、愛してetc )が分かると、お母さんがこどもと関わる時間が楽しい時間に。 

人はすべての人に"役割期待"している。道ですれ違う人にすら役割を期待している。それは何もしてこない人、という役割であり、すれ違う見知らぬ人からは何もして欲しくないという気持ちからそういう役を割り振る。
しっかり割り振っているから「道を訪ねたいんですが」と寄ってこられたりと、予期せぬ役割をされると、不安や恐怖を感じることもある。
先生や親もこどもに『こども』という役割を期待してしまっており、その役割からの逸脱を許さないでいる。

怒ってる人は困ってる人。
子どもを怒る人、支配する人、管理する人。
他にいろんなやり方、アプローチがたくさんあるのにそれを知らないだけ。
他に見つからないから、手っ取り早いのを選んでしまっているだけ。

暴力について。
「暴力をふるってはいけない。ほら、こんなに恐ろしいんだよ、嫌でしょ?」
そういうアプローチから
「暴力にさらされない暮らし。こんなに安心できて、こんなに楽しいんだよ、いいでしょ?」
こういうアプローチへ。

いえたらいえる話。
過去の辛さ。他人に言えたら、癒、え、る。
辛さを表現できる段階まで来たら、いつでも自分を取り戻せる。
では、表現できるときとは?
安心してるから
否定されないから
だから、表現できる。

わたしたち日本人は感情の扱い方を学んでこなかった。
日常で「さっき何を考えていた?」と聞かれることはあるけれど「何を感じていた?」とはあまり聞かれない。
周りから問いかけはないし、自分も引き寄せてこなかった。
"感じる"と"考える"は違う。

感情は生理現象。
感情は良いも悪いもない。感情は、自分を助け、守るための生理現象。
例えば、身に迫る危険から逃れる工夫を促すために、不安という生理現象が現れる。
感情は自分の中から湧いてくるもの。
誰かのせいにしがちだけど。

リストカットするこどもからは様々なメッセージが発せられているし(見つけてほしいとか)、感覚の麻痺(感じない心)を取り戻そうとして行われる。

『こどもは未熟だからまだ感じなくていい』というメッセージを大人が送ってしまっていることが多い。
おばあちゃんが入院したと知った孫がおばあちゃんを心配して「おばあちゃんは大丈夫?」と母親に。母親が「あなたはこどもだから心配しなくていい。」と伝えたらこどもは感じない子になろうとする。
辛いことがありお母さんが泣いている。「悲しいから泣いてるの?」とこどもが聴いたら「目から涙が出てるだけ」とか「目にゴミが入っただけ」。こどもは「あれ?おかあさんは悲しくなかったのかな?」と感覚が揺らぐ。

こどもは苦しいとき、大変なときに本来持っているその子特有の優位な感覚がさらに優位に、さらに敏感になる。視覚タイプ、聴覚タイプ、感覚タイプなど。
目と目があったら頭が真っ白になる子もいる。
反対に、安心できる環境下で優位な感覚を通じて様々なことができることもある。

スモールステップでないと、伝わらない子なのに。そもそも丁寧に伝える必要がある子なのに。
スモールステップなアプローチについて考えてみよう。
The high sensitive child 敏感すぎる子どもがいることを念頭に。

子どもの権利条約ハンドブックの24ページ。
『周囲がどう自分を評価しているか気にするあまり、存在するかどうかもわからない「他人の感情」に怯え、他人と同調し、いつしか自分の感情さえもわからなくなる、そんな不気味な関係の中で生きている子どもたちは、もはや「自らの意見を表明しよう」なんていう意思すらありません。それを真剣に受けとめてくれる土台はとうに崩壊しています。』

子どもの権利条約ハンドブックの22ページ。
『意見を表明する権利は、子どもが自分の力で人間関係をつくり、無視されず一人の人間として尊重され、一人前の大人になるために必要な心のエネルギーを育む』ものだから、子どもの権利の中で最も大切。
学校は、家庭は、子どもの心のエネルギーを育むことができているかな?
「ねえ、ねえ」という意見表明のための子どもからの声かけを先生や保護者は大切にできているかな?

「学校の先生はいつも忙しいから、私たちが何か話しかけたら迷惑になる。」
子どもたちはそうつぶやく。
あるフリースクールでは、新しく採用された先生にこうリクエストするそう。
「子どもの前では、なるべく暇そうにしていて下さい。忙しそうにみえないようにしていて下さい。」と。
きっと「ねえ、ねえ」と子どもが話しかけやすいようにってことだよね。

最近は、こどもを守るという言葉を使わなくなり、代わりにこどもの声を聴く、耳を傾けるという言葉を使うようになりました。
(こどもが声を聴かせてくれる状況づくりが大切)

家で自分が好きなことをしていたのに「あっ!時間を無駄にしちゃった!」と嘆く子どもたち。
他人が出した課題を懸命に処理することに日々追われている。
行かなければならない場所に、毎日、毎日行っている。

その場所は「これが出来ないと君たちの人生は終わっちゃう」なんてことを先生が子どもたちに言うような、全然安心できない場所。
そんな場所で時間を過ごしていては、命を輝かせてやりたいことをやるなんて、無理。
やりたいことを見つける暇なんて、ない。

ぼーっとする時間。
子どもたちに、あるかな?
子どもの頃から"休む練習"が必要かもね?
ぼーっとする時間はどんな人にも必要だよね?
考える時間。
感じる時間。
ぼーっとする時間は考える時間でもあるし、感じる時間でもある。
考える時間についてはみんな意識できているかもしれないけれど、感じる時間はどうかな?
ぼーっとする時間は、感じる時間でもある。
だから子どもにも必要なんだよね。
そして、ぼーっとする時間を過ごすには、ぼーっとできる居場所が必要だよね。
(先生にも、その他の大人にも、ぼーっとする時間、感じる時間は必要だよね。)

参観日の授業は道徳だった。
先生が期待する答えを見つけるだけの、クイズのような授業だった。
答えは最初から決まってる。
先生が望む答えは?良い点数をとるには?
もう、そればかり。
大人から暗に要求されていることに応えるしかない子どもたち。

お母さんのために学校に行かない子。
お母さんのために学校に行く子。

自立って何だろ?
他人に頼らないこと?
一人で何でもできること?
うーん、違うよね。
他人に頼れることが、自立だよね。
できないことは、人の力を借りればいい。
貸す人だって、きっと誰かの力を借りているんだから。
自立は孤立ではない。
助けを呼べること、頼れること。
それができるようになるまでは大人が発見して手助けしてあげることが必要。
それがこどもの最善の利益につながる。

自己肯定感は大事だが、育むのは難しい。
自己肯定感を高めることは、自分にはダメなところがあるとわかることでもある。
欠点は結点(けってん)でもある。できないから誰かと繋がれる。

発達障害と診断されて、発達障害と分かったことで楽になる人、楽にならない人がいる。
診断名を見てその子(その人)を見ようとしない専門家に憤りを感じる。
診断名が同じになったとしても、一人一人まったく違う。
診断名はあくまでも傾向を知るためのものなのに。

発達障害を英語で言うとDevelopmental disorder。
disorderは社会に合わない、オーケーでないという意味なのだから、社会が変わればオーケーになる。

"療育"は、"丁寧な子育て"のお手本と言われている。

国語のテスト問題が変。主人公の気持ちをかっこ内に書き込むときなど。
出題者の期待する答えを捜す空しさを感じる。
『こどもはみんな同じように日々成長していかねばならない』という大人からの圧力が辛い、みな違うのに。先生は、すべてのこどもが「成長しているか」否かを大事にしているようだ。
先生はできない人(できないこども)の気持ちをわかってくれたらいい。学校に馴染み優等生だった人であっても、できない人、できないこどもの気持ちを理解してくれたらいい。

こども全員が成長していないのに成長したと先生に言われて疎外感を覚えた。うちの子はたぶん入っていないと。
学校の成績づけ、評価づけは親子にプレッシャー。先生の価値観の押しつけ。
成績表を見せる日。
成績に価値があるかどうか、こどもは親の反応を見ている。
私はそんなのどうでもいい、という態度をしている。
伸びないところを伸ばそうとすると他もダメになることがある。

アドラーは叱らない、褒めない、と言っている。その子の感じ方に共感した言葉をかければいいと言っている。
「100点で良かったね。」は親の価値観の押しつけだし100点を取ることでしか愛情を貰えないと思ってしまう。
こどもがテストで100点をとりとても満足している様子ならば「満足できたんだね、良かったね」とこどもの感情に寄り添うかたちで声をかけると良い。
こういう声かけをすれば、100点ではなく満足に価値を置く子になる。
または悪い点をとり残念がっていたら「残念だったんだね。」と声をかければよい。

愛着障害がある人がいる。お母さん以外にも人がいると認知し始めたときに人見知りが始まるが、それまでのお母さんとの愛着度合いにより愛着を苦手とする人になることがあり、成長してから母親を拒否したりする。
その場合、母親も愛着障害だったりする。愛着障害は連鎖することがある。
しかし愛着障害は克服できる。取り戻せる。

「なぜ学校に来ないの?来いよ。楽しいよ。一緒に遊ぼう。」と大勢から一人に。
大人は周りにいたけれどずっとやりとりを見ていなかったから状況がわからなかった。だから助けてと目でサインをしたが伝わらなかった。
だから苦しくなりその場を去った。
対等じゃなかった。
大人に助けてほしかった。
不登校は自分で良くないと思ってしまっているから、いざ他人から言われると、ほんの少しでも心が乱れて揺らぐし、話すのが得意でなく、なぜ学校に行きたくないのか大勢にうまく伝えられないから、その場を去ることでメッセージを伝えようとしたのかも。
しかしそれではわかりにくい。
それだけじゃないかも。
場所から距離を取ることで自分の心を守ったのかも。
言葉にできない不安。
また言われる、という不安。
助けてもらえない不安。
将来への不安。
「もう言わないで。」
「僕ってダメになる。」
劣等感。
言葉にするのが苦手。
しかし一日経ってから母親に気持ちを言えた。
一日後に言葉になった。
時間をかければ、自分以外の誰かに言えた。

周りにいる子でそのとき共感できても、声をあげられない場合がある。
大人が発見してあげること。

昔はこどもは授かりもの、いまは作るもの?
昔はこどもは社会で見ていくもの、いまは?

先生や親の意図に沿った教育、子育て。
富国強兵の時代は終わったのに。
甲乙丙丁の時代は終わったのに。
分断され、高い垣根が築かれていて。
越えるのがたいへん。
すり合わせるのがたいへん。
普通って何?
士農工商の時代。
それぞれのカテゴリーごとに普通の暮らしがあった。しかしそのカテゴリーの普通に収まりきらない人が必ずいて、カテゴリーを少しずらしたら、落ち着く人もいた。

「まあ、いっか」という開き直り、あきらめも大切。
あきらめには2種類ある。
良いあきらめもある。
あきらかにきわめる、意味もある。今の状況を明らかにする意味もある。
例えば登山していて天候が悪くなり、登頂を取りやめる判断もあきらめである。
初志貫徹しようとして遭難することもある。取りやめて生きながらえることもある。

危機はチャンス。
問題は宝。
"大変"は"大"きく"変"わるとき。 

©︎ひゃくようばこ読書会

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【ひゃくようばこ読書会 ほんからまなぶこどものけんり 付箋メモより。】

案内役の鈴木 佳代 (Kayo Suzuki)さんが話してくれたこと、参加されたみなさんがつぶやいてくれたこと、教えてくれたことを集めてみました。

いかがでしたか?

「読書会に参加すると自分の心が整う気がする。基本にかえることができる気がするな。
だから、楽しい。また参加したくなる。」
とおっしゃって繰り返し参加してくださる方が多いです。

次回の開催は未定ですが、開催リクエストがあればメッセンジャーでお寄せくださいね✨!

以下はイベントページなどによく書いていた告知文です。
お時間ある方はこちらもご覧ください。

本のページとページがなぜだかぴったりくっついちゃって剥がれない。
よく見たら、数ページまとめてぴったりくっついちゃって剥がれない。
一冊の本のうちに、実はそんな箇所がたくさんあって、もういったい何が書いてあるんだか、よくわからない。

ある日の朝起きたときに浮かんだ、イメージです。
知らず知らずのうちに人権が最低限守られている国では、"人権"はぴったりくっついちゃったページとページの間に挟まれた、なかなか読まれることのないページなのかもしれません。
"人権"がまだまだ守られていない国では尊い一枚一枚なのにね。
"人権"というものがあるから、僕らはこうして尊厳を保たれながら生きていられるのです。

優しさとか思いやりとか道徳は、相手や時と場合によって変化してしまいます。
だから僕らは地球上のどこに行っても通用させられる普遍的な考え方である"人権"について学び、人権感覚を日夜磨く必要があるのです。

ひゃくようばこ読書会は、なぜだかぴったりくっついちゃったページとページを、メリメリとゆっくり破れないように剥がして本を読み進めてゆくような、そんな読書会にしていきたいなと思っています。

人権=Human rights は人が尊厳を保つための力です。すべての人は対等で、すべての人には尊厳があります。すべての人は安心して、自信を持って、自由に生きて良い存在なのです。

すべての人には子どもも含まれます。
子どももひとりの人なのです。
わたしたちは"人権"の学びはじめに、"Child rights"="子どもの権利"を最重要テーマとして選びました。秋の読書会も、子どもの権利をテーマにして、楽しく学びあいたいと思います。

◯ご案内役について
リーディングガイド役を務めて下さるのは、鈴木 佳代 (すずき かよ)さんです。

〜鈴木佳代さんプロフィール〜
豊田市在住。
『より良い親子関係講座』や『子育てワークショップ』の開催。
アクティブ・ペアレンティング・ジャパン公認トレーナー、ファミリー・カウンセラー。
『アティテューディナル・ヒーリングとよた』代表・ファシリテーター。
笑いヨガティーチャー。

~佳代さんからのメッセージ~
「20年前、わが子の不登校がきっかけで不登校の親の会を立ち上げ14年間活動しました。
子育ては、子どもの命をまもり、自立のための準備をすること。そのために生きるための技術を伝えていくのが親の役割だと感じています。また、子どもたちの幸せのためには、お母さんが幸せで笑顔でいることが一番だと考え、お母さんたちを勇気づけられるような活動ができたらと思っています。」

◯ひゃくようばこ読書会について
・ひゃくようばこ読書会は2017年1月よりスタートし、これまで豊田市などのカフェやワークショップスペースで30回以上開催してきました。
そのうちのほとんどは "Child rights"="子どもの権利"について学びあい、子ども観を磨くための読書会である『ほんからまなぶこどものけんり』でした。

◯ひゃくようばこ 運営方針

ひゃくようばこは、百の葉=百の言の葉に耳を澄ましてこどもたちの人権を守る、というヴィジョンを現す名前です。

「こどもたちのしあわせ」のために「子どもたちの力」になりたい。

そんなふうに考えて、こどもたちの人権・権利(条約)を守るアプローチを、みんなの日常に落とし込むことを使命の一つとしています。

「こどもたちが安心して学びあう」ためには、まずは大人たちがこどもの権利について安心して和やかに楽しく学びあう時間を持つことが大切だと考えて、大人を対象としたこどもの権利に関するお話会や読書会などを開催しています。

ゆえに、主催するわたしたち自身が、安心できて、和やかで、楽しい関係性を築きながら活動することが何よりも大切だと考えます。

わたしたちは、特に学びの場においてこどもたちの人権が守られないケースを危惧し、権利に基づくアプローチ、権利基盤型アプローチ、人権アプローチなどと訳される、ライツ・ベースド・アプローチ (Rights Based Approach) という手法を実践しています。
ライツ・ベースド・アプローチはNGOなどで用いられる手法で、文京学院大学の甲斐田万智子教授によれば『こどもをエンパワーするだけでなく、子どもの権利を守る責任のある人の力を高め』、さらに『子ども自身が権利を持っていることを理解し、権利を侵害された場合に主張できるように支援する』ものとのことです。

このような繊細な活動を行うにあたっては、ひゃくようばこの活動に携わる人同士が対等な関係性を持つように常に意識し、互いの価値観を尊重し、個人の尊厳を守り、意見が異なる時であっても、緊張せずに自由に、安心して話し合える雰囲気のもと、調整を図ることを心がけます。




























































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Posted by hyakuyobako at 21:35