2020年04月13日

ある読書会で付箋に書かれたメモより

ある読書会で付箋に書かれたメモより


子どもから学ぶってどういうことかな?
大人は麻痺して分からなくなってしまったことに子どもは気づける。
大人はもしも「変だ」と感じても沈黙してしまうが、子どもは素直に声に出せる。
ときに大切なことを思い出させてくれる、気づかせてくれる素敵な存在。

愛以外はすべて、怖れ。
愛の目と怖れの目しかない。
権利を守ってもらったこどもは、他人を守るようになる。自分のことを大切にされたこどもは、他人を大切にするようになる。
こどもの願い(こっち向いて、私を見て、わかって、愛してetc )が分かると、お母さんがこどもと関わる時間が楽しい時間に。 

人はすべての人に"役割期待"している。道ですれ違う人にすら役割を期待している。それは何もしてこない人、という役割であり、すれ違う見知らぬ人からは何もして欲しくないという気持ちからそういう役を割り振る。
しっかり割り振っているから「道を訪ねたいんですが」と寄ってこられたりと、予期せぬ役割をされると、不安や恐怖を感じることもある。
先生や親もこどもに『こども』という役割を期待してしまっており、その役割からの逸脱を許さないでいる。

怒ってる人は困ってる人。
子どもを怒る人、支配する人、管理する人。
他にいろんなやり方、アプローチがたくさんあるのにそれを知らないだけ。
他に見つからないから、手っ取り早いのを選んでしまっているだけ。

暴力について。
「暴力をふるってはいけない。ほら、こんなに恐ろしいんだよ、嫌でしょ?」
そういうアプローチから
「暴力にさらされない暮らし。こんなに安心できて、こんなに楽しいんだよ、いいでしょ?」
こういうアプローチへ。

いえたらいえる話。
過去の辛さ。他人に言えたら、癒、え、る。
辛さを表現できる段階まで来たら、いつでも自分を取り戻せる。
では、表現できるときとは?
安心してるから
否定されないから
だから、表現できる。

わたしたち日本人は感情の扱い方を学んでこなかった。
日常で「さっき何を考えていた?」と聞かれることはあるけれど「何を感じていた?」とはあまり聞かれない。
周りから問いかけはないし、自分も引き寄せてこなかった。
"感じる"と"考える"は違う。

感情は生理現象。
感情は良いも悪いもない。感情は、自分を助け、守るための生理現象。
例えば、身に迫る危険から逃れる工夫を促すために、不安という生理現象が現れる。
感情は自分の中から湧いてくるもの。
誰かのせいにしがちだけど。

リストカットするこどもからは様々なメッセージが発せられているし(見つけてほしいとか)、感覚の麻痺(感じない心)を取り戻そうとして行われる。

『こどもは未熟だからまだ感じなくていい』というメッセージを大人が送ってしまっていることが多い。
おばあちゃんが入院したと知った孫がおばあちゃんを心配して「おばあちゃんは大丈夫?」と母親に。母親が「あなたはこどもだから心配しなくていい。」と伝えたらこどもは感じない子になろうとする。
辛いことがありお母さんが泣いている。「悲しいから泣いてるの?」とこどもが聴いたら「目から涙が出てるだけ」とか「目にゴミが入っただけ」。こどもは「あれ?おかあさんは悲しくなかったのかな?」と感覚が揺らぐ。

こどもは苦しいとき、大変なときに本来持っているその子特有の優位な感覚がさらに優位に、さらに敏感になる。視覚タイプ、聴覚タイプ、感覚タイプなど。
目と目があったら頭が真っ白になる子もいる。
反対に、安心できる環境下で優位な感覚を通じて様々なことができることもある。

スモールステップでないと、伝わらない子なのに。そもそも丁寧に伝える必要がある子なのに。
スモールステップなアプローチについて考えてみよう。
The high sensitive child 敏感すぎる子どもがいることを念頭に。

子どもの権利条約ハンドブックの24ページ。
『周囲がどう自分を評価しているか気にするあまり、存在するかどうかもわからない「他人の感情」に怯え、他人と同調し、いつしか自分の感情さえもわからなくなる、そんな不気味な関係の中で生きている子どもたちは、もはや「自らの意見を表明しよう」なんていう意思すらありません。それを真剣に受けとめてくれる土台はとうに崩壊しています。』

子どもの権利条約ハンドブックの22ページ。
『意見を表明する権利は、子どもが自分の力で人間関係をつくり、無視されず一人の人間として尊重され、一人前の大人になるために必要な心のエネルギーを育む』ものだから、子どもの権利の中で最も大切。
学校は、家庭は、子どもの心のエネルギーを育むことができているかな?
「ねえ、ねえ」という意見表明のための子どもからの声かけを先生や保護者は大切にできているかな?

「学校の先生はいつも忙しいから、私たちが何か話しかけたら迷惑になる。」
子どもたちはそうつぶやく。
あるフリースクールでは、新しく採用された先生にこうリクエストするそう。
「子どもの前では、なるべく暇そうにしていて下さい。忙しそうにみえないようにしていて下さい。」と。
きっと「ねえ、ねえ」と子どもが話しかけやすいようにってことだよね。

最近は、こどもを守るという言葉を使わなくなり、代わりにこどもの声を聴く、耳を傾けるという言葉を使うようになりました。
(こどもが声を聴かせてくれる状況づくりが大切)

家で自分が好きなことをしていたのに「あっ!時間を無駄にしちゃった!」と嘆く子どもたち。
他人が出した課題を懸命に処理することに日々追われている。
行かなければならない場所に、毎日、毎日行っている。

その場所は「これが出来ないと君たちの人生は終わっちゃう」なんてことを先生が子どもたちに言うような、全然安心できない場所。
そんな場所で時間を過ごしていては、命を輝かせてやりたいことをやるなんて、無理。
やりたいことを見つける暇なんて、ない。

ぼーっとする時間。
子どもたちに、あるかな?
子どもの頃から"休む練習"が必要かもね?
ぼーっとする時間はどんな人にも必要だよね?
考える時間。
感じる時間。
ぼーっとする時間は考える時間でもあるし、感じる時間でもある。
考える時間についてはみんな意識できているかもしれないけれど、感じる時間はどうかな?
ぼーっとする時間は、感じる時間でもある。
だから子どもにも必要なんだよね。
そして、ぼーっとする時間を過ごすには、ぼーっとできる居場所が必要だよね。
(先生にも、その他の大人にも、ぼーっとする時間、感じる時間は必要だよね。)

参観日の授業は道徳だった。
先生が期待する答えを見つけるだけの、クイズのような授業だった。
答えは最初から決まってる。
先生が望む答えは?良い点数をとるには?
もう、そればかり。
大人から暗に要求されていることに応えるしかない子どもたち。

お母さんのために学校に行かない子。
お母さんのために学校に行く子。

自立って何だろ?
他人に頼らないこと?
一人で何でもできること?
うーん、違うよね。
他人に頼れることが、自立だよね。
できないことは、人の力を借りればいい。
貸す人だって、きっと誰かの力を借りているんだから。
自立は孤立ではない。
助けを呼べること、頼れること。
それができるようになるまでは大人が発見して手助けしてあげることが必要。
それがこどもの最善の利益につながる。

自己肯定感は大事だが、育むのは難しい。
自己肯定感を高めることは、自分にはダメなところがあるとわかることでもある。
欠点は結点(けってん)でもある。できないから誰かと繋がれる。

発達障害と診断されて、発達障害と分かったことで楽になる人、楽にならない人がいる。
診断名を見てその子(その人)を見ようとしない専門家に憤りを感じる。
診断名が同じになったとしても、一人一人まったく違う。
診断名はあくまでも傾向を知るためのものなのに。

発達障害を英語で言うとDevelopmental disorder。
disorderは社会に合わない、オーケーでないという意味なのだから、社会が変わればオーケーになる。

"療育"は、"丁寧な子育て"のお手本と言われている。

国語のテスト問題が変。主人公の気持ちをかっこ内に書き込むときなど。
出題者の期待する答えを捜す空しさを感じる。
『こどもはみんな同じように日々成長していかねばならない』という大人からの圧力が辛い、みな違うのに。先生は、すべてのこどもが「成長しているか」否かを大事にしているようだ。
先生はできない人(できないこども)の気持ちをわかってくれたらいい。学校に馴染み優等生だった人であっても、できない人、できないこどもの気持ちを理解してくれたらいい。

こども全員が成長していないのに成長したと先生に言われて疎外感を覚えた。うちの子はたぶん入っていないと。
学校の成績づけ、評価づけは親子にプレッシャー。先生の価値観の押しつけ。
成績表を見せる日。
成績に価値があるかどうか、こどもは親の反応を見ている。
私はそんなのどうでもいい、という態度をしている。
伸びないところを伸ばそうとすると他もダメになることがある。

アドラーは叱らない、褒めない、と言っている。その子の感じ方に共感した言葉をかければいいと言っている。
「100点で良かったね。」は親の価値観の押しつけだし100点を取ることでしか愛情を貰えないと思ってしまう。
こどもがテストで100点をとりとても満足している様子ならば「満足できたんだね、良かったね」とこどもの感情に寄り添うかたちで声をかけると良い。
こういう声かけをすれば、100点ではなく満足に価値を置く子になる。
または悪い点をとり残念がっていたら「残念だったんだね。」と声をかければよい。

愛着障害がある人がいる。お母さん以外にも人がいると認知し始めたときに人見知りが始まるが、それまでのお母さんとの愛着度合いにより愛着を苦手とする人になることがあり、成長してから母親を拒否したりする。
その場合、母親も愛着障害だったりする。愛着障害は連鎖することがある。
しかし愛着障害は克服できる。取り戻せる。

「なぜ学校に来ないの?来いよ。楽しいよ。一緒に遊ぼう。」と大勢から一人に。
大人は周りにいたけれどずっとやりとりを見ていなかったから状況がわからなかった。だから助けてと目でサインをしたが伝わらなかった。
だから苦しくなりその場を去った。
対等じゃなかった。
大人に助けてほしかった。
不登校は自分で良くないと思ってしまっているから、いざ他人から言われると、ほんの少しでも心が乱れて揺らぐし、話すのが得意でなく、なぜ学校に行きたくないのか大勢にうまく伝えられないから、その場を去ることでメッセージを伝えようとしたのかも。
しかしそれではわかりにくい。
それだけじゃないかも。
場所から距離を取ることで自分の心を守ったのかも。
言葉にできない不安。
また言われる、という不安。
助けてもらえない不安。
将来への不安。
「もう言わないで。」
「僕ってダメになる。」
劣等感。
言葉にするのが苦手。
しかし一日経ってから母親に気持ちを言えた。
一日後に言葉になった。
時間をかければ、自分以外の誰かに言えた。

周りにいる子でそのとき共感できても、声をあげられない場合がある。
大人が発見してあげること。

昔はこどもは授かりもの、いまは作るもの?
昔はこどもは社会で見ていくもの、いまは?

先生や親の意図に沿った教育、子育て。
富国強兵の時代は終わったのに。
甲乙丙丁の時代は終わったのに。
分断され、高い垣根が築かれていて。
越えるのがたいへん。
すり合わせるのがたいへん。
普通って何?
士農工商の時代。
それぞれのカテゴリーごとに普通の暮らしがあった。しかしそのカテゴリーの普通に収まりきらない人が必ずいて、カテゴリーを少しずらしたら、落ち着く人もいた。

「まあ、いっか」という開き直り、あきらめも大切。
あきらめには2種類ある。
良いあきらめもある。
あきらかにきわめる、意味もある。今の状況を明らかにする意味もある。
例えば登山していて天候が悪くなり、登頂を取りやめる判断もあきらめである。
初志貫徹しようとして遭難することもある。取りやめて生きながらえることもある。

危機はチャンス。
問題は宝。
"大変"は"大"きく"変"わるとき。 

©︎ひゃくようばこ読書会

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【ひゃくようばこ読書会 ほんからまなぶこどものけんり 付箋メモより。】

案内役の鈴木 佳代 (Kayo Suzuki)さんが話してくれたこと、参加されたみなさんがつぶやいてくれたこと、教えてくれたことを集めてみました。

いかがでしたか?

「読書会に参加すると自分の心が整う気がする。基本にかえることができる気がするな。
だから、楽しい。また参加したくなる。」
とおっしゃって繰り返し参加してくださる方が多いです。

次回の開催は未定ですが、開催リクエストがあればメッセンジャーでお寄せくださいね✨!

以下はイベントページなどによく書いていた告知文です。
お時間ある方はこちらもご覧ください。

本のページとページがなぜだかぴったりくっついちゃって剥がれない。
よく見たら、数ページまとめてぴったりくっついちゃって剥がれない。
一冊の本のうちに、実はそんな箇所がたくさんあって、もういったい何が書いてあるんだか、よくわからない。

ある日の朝起きたときに浮かんだ、イメージです。
知らず知らずのうちに人権が最低限守られている国では、"人権"はぴったりくっついちゃったページとページの間に挟まれた、なかなか読まれることのないページなのかもしれません。
"人権"がまだまだ守られていない国では尊い一枚一枚なのにね。
"人権"というものがあるから、僕らはこうして尊厳を保たれながら生きていられるのです。

優しさとか思いやりとか道徳は、相手や時と場合によって変化してしまいます。
だから僕らは地球上のどこに行っても通用させられる普遍的な考え方である"人権"について学び、人権感覚を日夜磨く必要があるのです。

ひゃくようばこ読書会は、なぜだかぴったりくっついちゃったページとページを、メリメリとゆっくり破れないように剥がして本を読み進めてゆくような、そんな読書会にしていきたいなと思っています。

人権=Human rights は人が尊厳を保つための力です。すべての人は対等で、すべての人には尊厳があります。すべての人は安心して、自信を持って、自由に生きて良い存在なのです。

すべての人には子どもも含まれます。
子どももひとりの人なのです。
わたしたちは"人権"の学びはじめに、"Child rights"="子どもの権利"を最重要テーマとして選びました。秋の読書会も、子どもの権利をテーマにして、楽しく学びあいたいと思います。

◯ご案内役について
リーディングガイド役を務めて下さるのは、鈴木 佳代 (すずき かよ)さんです。

〜鈴木佳代さんプロフィール〜
豊田市在住。
『より良い親子関係講座』や『子育てワークショップ』の開催。
アクティブ・ペアレンティング・ジャパン公認トレーナー、ファミリー・カウンセラー。
『アティテューディナル・ヒーリングとよた』代表・ファシリテーター。
笑いヨガティーチャー。

~佳代さんからのメッセージ~
「20年前、わが子の不登校がきっかけで不登校の親の会を立ち上げ14年間活動しました。
子育ては、子どもの命をまもり、自立のための準備をすること。そのために生きるための技術を伝えていくのが親の役割だと感じています。また、子どもたちの幸せのためには、お母さんが幸せで笑顔でいることが一番だと考え、お母さんたちを勇気づけられるような活動ができたらと思っています。」

◯ひゃくようばこ読書会について
・ひゃくようばこ読書会は2017年1月よりスタートし、これまで豊田市などのカフェやワークショップスペースで30回以上開催してきました。
そのうちのほとんどは "Child rights"="子どもの権利"について学びあい、子ども観を磨くための読書会である『ほんからまなぶこどものけんり』でした。

◯ひゃくようばこ 運営方針

ひゃくようばこは、百の葉=百の言の葉に耳を澄ましてこどもたちの人権を守る、というヴィジョンを現す名前です。

「こどもたちのしあわせ」のために「子どもたちの力」になりたい。

そんなふうに考えて、こどもたちの人権・権利(条約)を守るアプローチを、みんなの日常に落とし込むことを使命の一つとしています。

「こどもたちが安心して学びあう」ためには、まずは大人たちがこどもの権利について安心して和やかに楽しく学びあう時間を持つことが大切だと考えて、大人を対象としたこどもの権利に関するお話会や読書会などを開催しています。

ゆえに、主催するわたしたち自身が、安心できて、和やかで、楽しい関係性を築きながら活動することが何よりも大切だと考えます。

わたしたちは、特に学びの場においてこどもたちの人権が守られないケースを危惧し、権利に基づくアプローチ、権利基盤型アプローチ、人権アプローチなどと訳される、ライツ・ベースド・アプローチ (Rights Based Approach) という手法を実践しています。
ライツ・ベースド・アプローチはNGOなどで用いられる手法で、文京学院大学の甲斐田万智子教授によれば『こどもをエンパワーするだけでなく、子どもの権利を守る責任のある人の力を高め』、さらに『子ども自身が権利を持っていることを理解し、権利を侵害された場合に主張できるように支援する』ものとのことです。

このような繊細な活動を行うにあたっては、ひゃくようばこの活動に携わる人同士が対等な関係性を持つように常に意識し、互いの価値観を尊重し、個人の尊厳を守り、意見が異なる時であっても、緊張せずに自由に、安心して話し合える雰囲気のもと、調整を図ることを心がけます。




























































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Posted by hyakuyobako at 21:35